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生(ナマ)とオンラインと、その共存について

大橋玲

 2020年9月17日から10月25日までの約1ヶ月間、私は東京芸術祭内の人材育成プログラムであるAsian Performing Arts Farm(以下APAF)に参加した。人に紹介されるまでAPAFの中に20代までの舞台芸術の人材を対象としたスタディグループ、Young Farmers Camp(以下YFC)があることを知らなかったのだが、知った時強く興味を惹かれた。かねてより海外で仕事をしたいと考えている身としては、海外アーティストの創作現場の見学や、直接話せる機会を得られるのは、海外行きへの具体的なプランを立てる足がかりになるのではないかと考えたからだ。コロナ禍でなければそういった機会は東京に溢れているかもしれない。しかし、いくら東京まで新幹線で1時間半というアクセスの良い地方都市に暮らしているといっても、地方は地方。情報が入ってくることも少なければ、現場も少ない。そのため、人や情報が集まる場所へ自らの身を置くことで、少しでも現状打破ができればと考えたのだ。

 しかし、このコロナ禍の中、APAFを全てオンラインで実施すると聞いて迷いが生まれた。私は舞台芸術は生でそこあるべきだと考えている。また、創作現場においても「同じ空間にいること」を第一として考えてきた。初対面の人との触れ合い、特に海外アーティストと交流する場合は言語のハードルもあるため、画面越しでは思うようにアプローチ出来ないのではないかと不安になったのだ。しかし、今後も人が集まれない状況が続く、もしくは繰り返すことになるだろう。オンラインの事業も増える可能性は否定できない。そして、オンライン開催だからこそ豊橋にいながら参加できるというメリットもある。散々悩んだ末、不安と希望を抱きながら応募したのだ。

 この最終レポートでは、すべてオンラインで実施されたAPAF YFCを通して私が見つめ直した「生とオンラインの共存」について、3つの視点で言語化して行く。

 

参加者としての視点

 私は現在、愛知県豊橋市にある公共劇場で制作の仕事をしている。普段はYFCのような機会を市民へ提供する側にいることが多いため、とても久しぶりに純粋な参加者としてこういった企画に参加することができた。

 スタディグループであるYFCではとにかく自分と向き合うことが多い。制作の仕事は比較的「誰かのために」を軸に考えることが多く、これまでも環境的に自分と向き合う時間を取れることが少なかった。そのためか、他のYFCメンバーやファシリテーターと話している時、いつも自分は誰かの視点を通して物事を考える癖がついていることが分かり、驚きを隠せなかった。例えば、個人の問題意識について考えるように言われた時、とても困ってしまった。普段は“地域の課題”や“芸術文化の普及”が先にあり、その解決や発展に向けて事業を動かすことが多いためだ。興味のある分野はあるが、それについてじっくり考える時間は正直なかった。なのでYFC内の議論やレポートを通して、自分の思考回路が目に見えてわかったのは非常に興味深かったし、個人の問題意識を掘り下げていきたいという欲求も高まった。

 

 全12回のYFCではzoomとSNSを通して言葉を尽くし、zoomを起動しながらまちあるきを行ったりなど実験をしながら交流を深めることはできた。肝心のLabやExhibitionメンバーとの交流が深められたかというと、満足には出来なかった。これにはいくつか理由がある。

 1つ目は、オンラインはオフラインよりも一つひとつの事柄に時間がかかったためだ。zoomなどのオンライン空間では、オフラインだと1日で終わるようなことが2倍、もしくはそれ以上の時間が必要であることがわかった。一つの部屋に集まって対面で行う自己紹介と、zoomの画面越しに行う自己紹介だと密度が違う。会話をするにしても、オフラインだと発言が重なり合うことで会話が発展していくが、zoomでは声がかぶると音が打ち消しあってしまうので必然的に相手を待つという無意識の間が生まれる。これがかなりのタイムロスなのだ。かといってその分時間を長くすれば良いかというと、長時間同じ姿勢での会話、常にカメラが向いているという気疲れ、スピーカー越しに聞く音声の聞き取りなど、普段と違う気力の使い方をするため時間を延ばすのは得策ではない。今回の限られた開催期間ではYFC内の関係作りに手一杯だったため、LabメンバーやExhibitionメンバーとの交流まで手を伸ばせなかったのだ。

 2つ目は、オンライン空間は閉鎖的な空間であるためだ。Zoomの場合、隣の部屋をちらっと覗くようなことはできない。同じ建物内で別々の部屋にいながらもの自動販売機前で偶然会うこともない。帰り道が同じで、そのまま雑多な会話をするという空間も作りにくい。つまりこれまでオフラインの時にあった余白のようなものは無くなり、他グループと関わりを持ちにくい環境になってしまったのだ。

 3つ目は、完全に個人的な理由だが、急速に仕事量が増えたためだ。緊急事態宣言が発令され、劇場は臨時休館になり、開館してからも9月半ばまでの事業が中止や延期となっていたが、9月末からようやく主催公演を再開し、10月には施設の貸し出しも格段に増え、コロナ対策をしながらの劇場運営に想像以上の人手と根気が必要となった。当初は仕事の合間に海外アーティストとの交流を図ろうかと考えていたが、そこにかけられる余裕がコロナ対策に持って行かれたのである。かろうじて海外アーティストとゆっくり話ができたのは、最終日に行われたオンライン打ち上げでだった。

 

 昨年のYFC参加者の話を聞く限り、現場の見学ついでに話をしたり、積極的にLabやExhibitionのメンバーに関わる人もいたようだ。また、その日のYFCの活動が終わったついでに行った食事で長時間意見交換をした様子も伺った。生にはこのような“ついでに”がたくさんある。そこから生まれる出会いや交流は本当に貴重である、と改めて痛感させられたAPAF期間だった。

 だが、オンラインだったからこそ生まれた関係性もあった。今年のYFCメンバーは日本のいろんな地域から参加していた。途中、滞在場所を変えながら参加しているメンバーもいた。こういった東京で行われている長期的な企画にこれまで参加したかったけれど、参加出来なかったメンバーが集まれたのではないかと思う。私もその一人だった。今年の5人のメンバーはあえて最後まで「直接会わない」という選択肢を取った。それによって生まれる関係性もあるかと思ったからである。しかし終わってみてやはり思うのである。APAF期間と同じようにオンラインで発信し合わないと、この関係性の維持は難しい、と。

 オンラインは場所に縛られない出会い方ができ、インプットのツールとしても効果的である。しかしオンライン上の交流だけでは、目に見え、文章で読める範囲までしか関係性が深まらないと感じた。画面越しでは伝わらないものがある。それが生の強みであると区別をつけて参加をすることが、今後のオンライン化をストレスなく生き抜く方法になるのではないかと感じたAPAF期間であった。

 

作り手としての視点

 YFCは最終週に、「OPEN YFC ディスカッション」を実施した。メンバーが気になる、他業種で活躍する20代のゲストを4名招き、それぞれにオンライン化による仕事の変化、コロナ禍においての地方と東京について、そしてコロナ禍の前に戻りたいかどうかを伺った。コミュニティに対する話を中心に話題は多岐にわたり、限られた時間の中ながら非常に濃密なディスカッションを行うことが出来たと考えている。しかし、ここにたどり着くまでに私はオンラインで共同制作をしていくことのハードルをいくつか感じていた。

 「OPEN YFC ディスカッション」は5人で一つの企画を進める形で話し合いを重ねていた。ディレクターである多田さんの意見を受けて何回か形を大きく変える経緯があったのだが、ここまで企画が短期間で形を変えたのは、5人それぞれが見えている景色が違ったからなのではないかと感じた。何回も話し合ってはいたが、話せば話すほど企画に対する個人のズレが見え、オンライン上の意思疎通の難しさを肌で感じた期間だった。恐らくこれは多様なバックグラウンドがあるからこそ生まれたズレであり、決してマイナスの意味ではない。

 

 今回は短期間だったとはいえ、ディスカッションの企画を形にするだけでも意思疎通を取るのに苦労した。ではこれが舞台作品の創作になった場合はどうだろうか。

 私は普段創作現場に立ち会う時、相手の表情や視線の向き、会話の間の取り方、姿勢や仕草、休憩の過ごし方などをみて相手が理解をしているか、困っていることがないかを探っている。もし困っていればその場ですり合わせたり、休憩時間中に個別に話しかけにいったり、他のメンバーに様子を聞いたりする。しかしzoomではこれまで判断基準にしていた前記のものはほぼ可視化されない。文面上でのやりとりではもっと分かりづらくなる。オンラインだと、言語化できる人の方が圧倒的に優位になってしまうのだ。創作現場は言語化できる人ばかりがいるわけではないため、オンラインでは別の注意の払い方をしないと、重大な取りこぼしが起きる可能性が高いと感じた。言語化できる同士の会話でも「OPEN YFC ディスカッション」の時のようにズレが生じるのだから。

 参加者としての視点でも書いたように、オンラインは時間がかかる。時間をかけて言葉を尽くせば、生で対面している時のような意思疎通が取れるかもしれない。ただ舞台芸術は生ものであると言われているように、人の考えや感情は常に移り変わるものだ。その移り変わりの速度をオンラインに合わせるのか、速度についていけるオンラインの方法を模索していくのか、あるいはその両方なのか。オンラインで創作をし続けていくのならばオンラインである必然性についても考えなければいけないと感じた。そして生で対面する必要性があると判断された場合のために、感染予防対策も含めたスケジューリングをする習慣が普及されていくことが今後の創作現場に重要になってくるのではないかと考える。

 

劇場職員としての視点

 パンデミックが起こってから、人が集まるのを前提にしている場所や取り組みはどこも大打撃を受けた。ブロードウェイが2021年5月末まで閉鎖を決定したのは大々的に報道されたが、他のアジア諸国も劇場が再開出来ていないとAPAFを通して知り、日本が劇場を再開出来ているのはレアケースに入るのだということがよくわかった。

 9月下旬から人数規制緩和が始まり世界と真逆をゆく日本だが、全てが元どおりになる可能性は低い。今後も引き続き消毒・マスク着用の対応はもちろん、映像配信ができる機材を揃えることも劇場の必須条件になってくるだろう。そして舞台作品を上演する過程の中に、オンラインで作品を届ける選択肢が違和感なく入ってくる世の中になっていくのかもしれない。これまでの舞台業界のことを考えると、より多くの人に作品を届けられるオンライン配信が普及するのは悪いことではないと私は考える。だが、舞台芸術の真の魅力は劇場(もしくは作品が上演される場)で作品と同じ空間にいるからこそ味わえると強く訴えていきたい。

 APAF期間にオンラインでYFCやLabのレクチャー見学、Exhibitionの稽古見学・作品鑑賞を行なってみて強く感じたのは、オンラインで体験すればするほど、体が置いてきぼりになるということだ。画面に集中していても、携帯が音を立てたり、家族が話しかけてきたり、ネット通信が切れたりすると集中を戻すのが難しい。劇場に行くという行為は、まず体を動かし場所を移動する必要があり、余計な情報を遮断する空間に身を置き、全身で作品を受け止める行為なのだ。その時間が充実したものになるか、余計なものだったと感じるかは作品次第だが、作品に集中できる空間を提供するのが劇場の大きな役割の一つなのである。

 これが当てはまるのは観劇ばかりではない。ワークショップを行う時や、市民と作品創作をする場合も、安心してその場にいることができる空間を作り出すのだ。公共劇場の場合、お茶をしに来たり、勉強をしに来たり、ただボーッとしに来たりなど、その地域に暮らしている人の居場所を提供する役割も担っている。人が集まれる場所であることがとても重要なのだ。

 舞台芸術とは作品と観客が相互に作用して作り上げられる芸術である。オンラインで相手の反応が見えない環境が続くのは作り手にだけではなく、観客にとっても良い環境であるとは言えない。今後も新型コロナウイルスのような感染症がなくならない限り非身体のパフォーミングアーツ化の実験は続けていかなければならないが、身体を表現媒体として使っている限り、観客の身体も疎かにしてはいけないと私は考える。“集まれないこと”への抗体が“集まること”への抗体にならないように、オンラインと生のバランスをうまく取りながら劇場という空間を守って行く必要があると再認識した期間となった。


 

 以上、3つの視点から「生とオンラインの共存」について言語化を試みた。当初の目論見とだいぶ違うAPAF期間となったが、最初から最後までオンラインで参加することでオンラインに対するハードルは低くなった。オンラインへの耐性が普及すれば、東京と地方の共同制作や国際共同制作など物理的な距離がある企画のさらなる発展に繋がるだろう。生であることへのこだわりは持ち続けたいが、今後はオンラインの企画に参加することも視野に入れるようになるだろう。そしてAPAFの皆様の対応は、オンライン企画を主催する際の参考にもなったので、今後の事業へ大いに活かしていきたい。また、YFC SOLO企画として立ち上げた「REI’s Interview」も細々と続けていく予定である。期間中に達成することは出来なかったが、国外の情勢を知るためにも今回の縁を活かして情報交換を続けていきたい。いつか直接会える日を願って。

​​APAF2020 Young Farmers Camp 最終レポート >

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