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「人は見たいものしか見ていない」を考えて

堀春菜

YFCでの活動が終わった。本当にオンラインで初めましてをして最後までオンラインでしか会わず、不思議な気持ちだ。役者である前に堀春菜でありたい、と考えてきたが、堀春菜であるとはなにか、人間であるとはなにか、私は今後どうしていきたいのか、YFCでの活動・LabとExhibitionの見学を通し見つめなおす非常に貴重な時間となった。

 

私に影響を与えた一番大きな出来事は各個人で企画し実施したSOLO企画である。私はSOLO企画として「人は見たいものしか見ていない」という実験を行った。初めて自分で企画し、実行した。これは私にとってとても大きな意味があり、YFCに参加する以前は漠然と企画や脚本を考えてみることはあっても実行するまでに至らず、制作してみたいと言いながら全く動けない自分に情けなさと悔しさと感じていたため、実行できたという経験がまず私に大きな変化を与えた。更に今回、YFCメンバーは皆、それぞれ制作をする人で演劇を作ったり踊ったり企画を行ったりしていたので知らず知らずのうちに自分だけがなにも作れていないということがコンプレックスになっていたのだと思う。企画としては私が大学で学んだ心理学のエクササイズやAPAF活動内で手に入れたあらゆる持ち札を使って実験を行ったに過ぎないが、SOLO企画を実施するにあたり、企画書を作成してみることで私がどんなことに問題意識をもっていて何をしていきたいのか客観的に見つめることが出来たのでまずはそれだけでよかったと思っている。

 

「人は見たいものしか見ていない」は我々人間は五感で捉えた感覚を脳によって認識する時になるべく都合の良い真実へと変化させているのではないか?では一体、私たちは何を「見ている」のか、真実とは何か、自己を自己のまま捉えることは不可能なのだろうか?といった疑問から発展した実験である。そう考えた背景には自分の家族との関係や、保育園勤務での経験、学生など子どもたちとの出会いと関わりがあるのだが、Labで熊倉敬聡さんのレクチャーに参加したことも大きなきっかけとなっている。レクチャーでは瞑想をした後に各自zoomを切断し、アジアで共通項として挙げられるお米を<“食べること”それ自体に精神を集中させ自分のペースでゆっくりと食べる>というシンプルなことを行った。お米、一粒一粒が分離し唾液と混ざりあっていく感覚。うまれて初めてお米を食べたような衝撃を受けた。私は今まで何を食べていたのだろうか。Reality とは一体何なのか。そのRealityは社会的に作られたものか、それとも自分が体験し感じたものなのか。“お米”といっても国や文化によって捉えられる文脈は実は全く違う。私が疑問も抱かずに捉えていた様々なことは本当に、そうなのか?私が普段目にしているものは一体何なんだ?「見たいものしか見ていない」と考えていたが、それは国や家庭環境など周りに「見せられている」作られたものなのか?インターネットの普及によって情報に埋め尽くされているこの時代に、せめてSOLO実験の中では本質的に自己と対峙してみたいと思ったのだ。

 

実験を行って思い出したことがある。昨年、台湾に滞在し、東アジア人の俳優・演出家たちとで作品創作を行ったときのことである。初日の顔合わせまでに一つ課題がだされていた。それは「Who am I?」をテーマに8分程度のパフォーマンスを考えてくることだった。(そういえばここでも自分で創作していたといえばしていた)私は「私とはなにか?」を考えるときに生まれてから今まで影響を受けたであろう育った国や環境などを一つ一つ乖離させていくことで結果残って見えたものが「わたし」であると考えていた。だが、他の人のパフォーマンスを見るとそれぞれの国や、習ってきたこと、考えてきたこと、それらを全て抱えた「Who am I?」だったので驚いたのだった。私にはそんな視点がなかった。今回のSOLO企画でもやはり私は魂レベルでの自分との出会いを求めていて自分が何者なのか、ということに対して「見ているもの」と「見せられているもの」とを分けて理解したいという欲求があるのかもしれない。

 

今後、今回のSOLO企画の精度をあげていき、いずれ教育の舞台で子どもたちと実施していきたいと考えている。それは自身の認識への客観性を持つことは子どもたちにとっても物事を一つでなく、いくつかの角度から捉えることが出来るようになるきっかけになると思っているからである。「妻と義母」「ルビンの壺」の絵の錯覚体験によって人間の脳の在り方を知り、自身の認識している真実に疑いを持ってみたり、自身の常識は自身の属している環境によって形成されていることに気が付けばそのことを踏まえた上でどうしたいのか考えてみることが出来る。そしてそれは自己肯定感や他者との共存に繋がると考えている。

 

YFCの活動をしていく中で私は私よりも下の世代がどうしたら生きやすいようにできるのかということを想像以上に考えているのだなと発見した。結局私にできることは何もなくてただ味方であるということを伝え、彼女らや彼らがどうかなるべく傷つかず、いや、傷つくことは悪いことではないけれど、どうかなるべく優しい世界で生きられるようにと祈ることしかできないと考えていた。だがYFCを終え、もしかしたら祈ることに合わせ、もう少し何かできることがあるのかもしれないと思えるようになった。

 

YFCで共通テーマとなった「画面と想像」も考え続け、現在私は画面、オンラインに対してかなりの希望を抱いている。オンラインが有効になっていけば教育もまた大きく変化するだろう。オンラインであれば疎外感が生まれにくく自分のペースも守りやすい。実際に不登校だった生徒がオンライン授業で勉強ができるようになっていることは最高のことだと思う。だが同時にオンラインを渇望している生徒にこそオンラインの環境が難しい条件であったり、虐待を受ける子どもが隠されやすい構造になってしまうことも考えていかなければならない。同じく、YFCディスカッションでも話に挙がった公共施設の役割である“誰かに「見られる」”ということが、オンラインの増加によって減っていってしまう可能性を忘れないようにしたい。

 

舞台芸術と教育と私。

私は舞台芸術に関わることで人間のことを知っていきたいと願っているのだろう。私はまだ私のことがわからない。何を「見ていて」何を「見せられて」いるのか、人間とは一体どんな存在なのか、考えていきたい。そして舞台芸術で得たものを教育分野にもっていって子どもたちが息のしやすい環境を整えていきたい。舞台芸術が最も鋭利に人を刺す素材になり得ることも頭に入れ、堀春菜であり続けるためにもまずは自身の生活を疎かにしない役者でいよう。APAF YFCでの活動で感じた、考えていることを言語化する能力も鍛えていかなければと思う。言葉にするって大切だ。

 

最後にAPAFの皆様はじめ、YFCの皆様の支えによってYFCメンバーとして活動すること、そしてSOLO企画を実行することができました。何度も添削や調整をしてくださったAPAF制作の皆様、9月から沢山の話をし、芋けんぴで皆で涙が出るほど笑い、時間を共にした柴ファシリテーター、YFC担当制作の谷さん、YFCメンバーの皆さんに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。いつか、オフラインで会いたいです。その時はまた、「初めまして」というのかな?

 

YFCディスカッションに参加してくれたゲストの皆様、見に来てくださった皆様、YFC活動中、見守ってくれた私の周りの全ての皆様、本当にありがとうございました。

​​APAF2020 Young Farmers Camp 最終レポート >

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