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Young Farmers Camp

最終レポート

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演出家

酒井一途

1992年東京生まれ。『ここと今』のアートのために、パフォーマンスアート作品の演出を行い、一対一の関係性をみつめる場をつくるために、演技未経験者を対象とするワークショップを行う。慶應高校在学時より演劇活動を始め、大学1年時にミームの心臓を旗揚げ。4回の本公演で脚本・演出を手がけたほか、早稲田・明治・日藝・桜美林・青学の劇団を集めた合同公演を2回に渡って企画立ち上げ、総合プロデューサーとして主催。2017年より1年間、ベルリンに遊学。西欧を中心として11か国を旅し、劇場と美術館に通いつめた。

 恥をかいた話からはじめる。顔合わせの初日、アジア諸国から日本を訪れてきた同世代のアーティストを前に、僕は自分を見失った。何者としてそこに立っていればいいのか、わからなくて。

 彼らに対して、はじめて自分の意見を表明するとき、僕は「日本人」の話をした。そのとき話したのはこういう話だ。「日本人」は近代化の過程で欧米のことばかり追いかけてきて、自分たちがアジアの一部だと実感を持てているひとは、決して多くないのではないか。「日本人」は近代の歴史を公教育のなかでほとんど学ばない。自国の近現代史を知らずして、「日本人」はアジアに向き合うことはできない。なぜなら「日本人」は戦時中、アジア諸国に対する植民地主義政策を行ってきた過去をもっている。「私たち」にその自覚なくして、どの面下げてアジアの人びとと対等に話し合うことができるだろうか、と。

 

 この発言に対して、ラボのキャプテンである藤原ちからさんから返答があった。「日本人」は日本の話ばかりをする。なぜ「私たち」という主語を使って、「私たち」の話をしたがるのか。「日本人」が内向的に抱く罪の意識や、歴史も学ばずアジアのことも知らず、何も見えていないなどという話に、アジア諸国の人びとは関心がない――。率直に伝えてもらったこのフィードバックに、深く内省の機会を得た。

*    *   *

 今にして思えば、アジアに当事者意識を持てずにいたのは「僕自身」の問題だった。生まれ育った「日本における自分の姿」や、ベルリンに一年間住んだ経験から「ヨーロッパにおける自分の姿」は、少なからず考えてみたことがあった。しかし「アジアにおける自分の姿」は、これまで考えてもみたことがなかった。アジアという域内で自分の姿を探したら、そこには誰もいなかった。自分を見失い何者でもなくなった僕は、自分を「日本人」として一般化して話した。これが、してはならないことだった。

 安易に自分を一般化して話すとき、そこには大いなる過ちが生じる。自分自身のことを話せないとき、自分をより大きなグループの概念として話そうとしてはいけないのだ。そういう語り口をするとき、「日本人とはこういうもの」「人間とはこういうもの」という、自分の価値観にかこつけた「正しさ」を主張してしまう。それはとても危うい発想に通じていく可能性がある。

 たとえば「日本人とはこういうもの」というとき、そうではないものを日本人から排除する発想が生まれ る。「人間とはこういうもの」というとき、そうではないものを人間から排除する発想が生まれる。自分を見失い、何者でもなくなっていくほど、闇雲に主張は強くなっていき、自分の価値観は「より大きなグループ」の話としてなされることになる。それ以外の「正しさ」を認められなくなる。

 これは「差別」が生じる構造のひとつではないだろうか。対象との関係の中に「自分の姿」が見つけられないとき、自分が否定されることを避けるために、対象への否定として排除が起こる。

 僕がアジア諸国の人びとに対して「日本人」の話をしたとき、そこに排除の意識などなく、むしろ彼らにどのように向き合っていけるかを模索したい一心で、意見を表明したことはたしかだ。そのとき否定は「みずからに向かって」生じていた。しかし構造としてはこれらは同じ形をしていて、ベクトルが違って「外に向かって」否定が生じれば、他者を排除する「差別」の発想になりえる。自分を「より大きなグループ」として一般化するとは、そういうことだ。そのことに気づいたとき、愕然とした。

 

 生まれ育ってきたバックグラウンドやカルチャー、価値観、物事の基準が異なるような「他者」と出会うときには、そういうことが起こりやすい。出会う状況がポジティブであれば、過ちのベクトルには向かないかもしれない。しかし、やむを得ず同じ地域で共存しなければならない場合など、状況が当事者の意図と関わりなく生じ、お互いの出会い方がネガティブにも受け取られかねないとき(これからの時代はますます増えていくだろう)、対立が起こり、溝は深まる。その過程で差別が生まれていく。それが「差別」だとは認識されないままに。

 

 ただでさえ「自分の姿」を見失いやすい情勢である。世の流れのままに差別が増長されないためには、どうしたらいいか。差別の生まれる構造を自らの内に自覚したとき、考えが深まり始めた。

 アーティストとして、国を超えて多様な人びとと交流を持ち、共同で創作の場を作っていくことは、こうした差別に抗い「共存」の道を模索していくための、先駆けとしての役割を担うのではないかと思う。

 国を超えてのアーティスト同士の出会いはまず、どのようにすれば対話しはじめられるかという問いから始まる。そして次に相手の存在そのもの、そのひとの生い立ちやナラティブ(そのひとによって語られるそのひと自身の物語)、そのひとが属する「より大きなグループ」の歴史や文化を尊重し、傾聴する。その上で自分の存在そのものにとって切実な意見も提示する。そうした誠実なやり取りのなかで、お互いを高め合うことのできる関係性を築くことを目指す。そのための場と時間がうまれる。

 個人と個人が出会うところからしか、「共存」の道は開けてはこない。そして「共存」のためには、お互いの存在を認めることが肝要だ。言葉が通じなかったり、思うように言いたいことが伝わらないこともある。そんな中でも相手を見て、聴いて、自分を伝えていく。相手が伝えようとすることも、受け取ろうとする。その結果として、たとえ互いにすべてを理解しあえなくてもいい。「自分がここにいて、そのひとも、ここにいる」ということを認めるだけで、大きなことだ。(どのみち「他者」とすべてを理解しあうことなんて、できないのだから。それでも理解しあおうとする「態度」が大事ではないか。)自分の存在を重んじるがゆえに、相手の存在も尊重すること。「共存」の道を模索すること。

 

 国際コラボレーションの場におけるアーティストは、こうした「共存」の態度を誰よりも示すことができるようでなくてはならない。なぜならコラボレーションの期間中は、どんなにぶつかり合ったとしても、とにかく対話しつづけなければならないから。コラボレーションの結果としての、なにかしらの「成果」を出す必要がアーティストには求められているから。出会いを最終的にポジティブなものにする責任がある。

 「今までの自分とは違うコンテクスト(文脈)に出会って、その違うコンテクストの中で、どうやって自分を表現するかということ。これまでの自分が使ってきたボキャブラリーが通じないときに、どのようにコ ミュニケーションを取るかということ。そういう経験を積むために、違うコンテクストに積極的に出会いに行き、自分を表現できるボキャブラリーを増やしていくことが大事。それによって作品もまた鍛えられる」

 プログラムの一貫としてプロデューサーの中村茜さんのレクチャーを受け、このような言葉を受け取った。これはアーティストに限らず、多くの人びとにとって大事なことを言っている言葉だと思った。 違うコンテクストに出会い、自分のボキャブラリーを増やしていくことは、アーティストや作品が鍛えられる以上に、人間が鍛えられる。自分とは異なる価値観、文字通りの「他者」に出会っていくことで、その関係のなかに

「自分の姿」をあたらしく見いだしていくことができる。言語で理解するのとはべつの、「経験」。

 こうした「経験」を積むことを、アーティストだけの特権にしていてはならないのではないか、と思った。実際、国際コラボレーションの場に参加できることは、非常に恵まれたことなのだ。国や東京都、基金からの助成のシステム、運営のための多くのスタッフの支えの上に成り立っている。参加するアーティスト当人のためだけに、こうした支えがあるのではない。アーティストはいわば自らを被験者としてその場に参加 し、環境を享受する。そうしてアーティストが先駆けて、「共存」の道のための模索を実践することで、その貴重な「経験」を今度は社会に広げる役割を担う、というサイクルの生まれることが求められると思う。

 

 さきほど「差別」が生じる構造のひとつとして、対象との関係の中に「自分の姿」が見つけられないとき、自分が否定されることを避けるために、対象への否定として排除が起こると書いた。日常の生活のなかで、人びとがいきなりまったく違うコンテクストに生きてきた「他者」と出会うことは困難なことで、ハードルが高い。出会う場がまずないし、出会ったとして、そうそう向き合えないだろう。

「差別」が生じる構造を、その構造が生まれる前に解体してしまうには、「経験」のあるアーティストが介入して、人びとが安心して自分と違うコンテクストに出会えるような場が設計されればよい。

 アーティストがそのような場をつくるにあたって、「アート作品そのもの」を作るだけでは足りないという考えにいま至っている。

 アーティストの「経験」をアーティストだけの特権にしないためには、「アートと、その受容者(鑑賞者) との関係」こそ、見直されなくてはならない。プロデューサーやキュレーターの仕事に任せるだけでなく、その関係を、アーティスト自身が築き直すような場を作らなくては、追いつかない。

 本来であれば、「アート作品そのもの」が「他者性」を表すような絶対的なものであることができればいい。アート作品を通じて、その受容者(鑑賞者)が違うコンテクストに出会うことで、それまでの自分を構成してきた「常識」が崩れ、あたらしく「自分の姿」を見いだすという「経験」をする。これは理想だ。

 しかし多くの場合、アートを受容するのはごく一部の限られたひとたちにすぎない。特定のジャンルの愛好家とか、ハイカルチャー層とか、「良い教育」を受けた層だ。そうすると「アートと、その受容者(鑑賞者) との関係」はどこまでも類似的なものになり、変化を来さない。一般の社会に広がってもいかない。古くから、ある種のアートはそうした層に向けられた独占物としてあったこともあるが、現代にあっては、アートは特定の層の専有財産ではないのだから、アプローチの仕方をアーティストの側から変えたほうがいい。

 とくにアーティストが日常的に行っている「経験」は、より開かれたものとして共有される価値のあるものなのだ。そこには今まで書いてきたように、生まれ育ってきたバックグラウンドやカルチャー、価値観、物事の基準が異なる多様な人びとが「共存」する道を模索するための、得がたい示唆があるはずだから。

 「経験」の共有が「アート作品そのもの」を通してだけではなく為されるとしたら、それはどのような方法で行うことができるだろう。いくつかの具体的な方法を考えてはいる。それは東京ではない、べつの土地で実践を試みるつもりでいる。東京ではできないことが、べつの土地でなら可能だということを示したい。

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 「APAF Young Farmers Camp」では、2週間にわたって国際コラボレーションの現場に立ち会った。

 東京で1ヶ月の滞在制作期間を設けて作品づくりをする「Exhibition」、インドネシアのジョグジャカルタと東京で、それぞれ1週間ずつリサーチ・共同生活してテーマに沿ったプレゼンテーションをする「Lab.」のどちらも、現場をいわば「外側」から俯瞰できたのが、むしろ考察を深めた。

 ディレクターの多田淳之介さんをメンターとして、「Young Farmers Camp」のメンバー内で問題意識を共有してディスカッションをし、自分自身で課題設定をして、その課題に向き合いつづけたのもよかった。APAFに参加した期間を経て、今後のアーティストとしての生き方が、明確に言語化できるようになった。様々なものに対しての意識が変わり、20代のうちに通っておくべき道を通った、という実感を得ている。

 このレポートに書いてきたことは、APAFを通して感じたこと、考えたことを整理して言語化したものだ。ここに書いた内容が、いまの自分にとってのアーティスト・ステートメントだといえる。そしてまた、これからアーティストとして、社会に向けて実践していきたい内容でもある。

 支えてくださった多くの方々に感謝しています。まだみぬあたらしい「自分の姿」に出会い、変わっていくには、しかるべき環境に身を置くことが大きなきっかけになるのだと感じました。そしてその環境のもとで与えられるものだけでなく、それ以上のものを掴み取っていく姿勢が大切なのだと。

 若手の舞台芸術の演出家にとって、国際コラボレーションの場に参加できる環境は、国内ではほとんどない貴重な機会です。これからもAPAFが社会的なアーティストが育っていくために意義のある場として、国や東京都、基金からの助成を受け、広く認知されていくことを願っています。

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