top of page

Young Farmers Camp

最終レポート

kim.JPG

劇作家・演出家

キム・ヒジン

劇作家、演出家、劇団膝主宰。日本大学大学院芸術学研究科在学中。2015年韓国芸術総合学校主催の第3回青少年戯曲フェスティバルにて作品「ボット」(bot)で大賞を受賞。ソウル演劇センター、国立劇団の戯曲ショーケースのアーティスト1人として活動してきた。不条理をめぐる創作を多く行う。

芸術、アーティスト、ネットワーク

 

 今回2019年度東京芸術祭の内部プログラムの⼀つであるAPAF(Asian Performing Arts Farm、アジア舞台芸術⼈材育成部⾨)でのYoung Farmers Campの⼀員として、2019年9⽉26⽇から30⽇までの五⽇間にわたっての第1コア期間、そして10⽉21⽇から27⽇までの⼀週間にわたる第2コア期間のあいだ、多様なるバックグラウンドを持った東アジアと⽇本のアーティストたちと共に、今の芸術をやっている⼈にとっての現代舞台芸術における過去、現在、そして未来について考える時間を過ごすことができた。このレポートでは約2週間という短い期間の活動のなかで、この⽬で⽬撃したこと、頭で理解したこと、体で触れたことなどを三つの主題に分けて語ろうとしている。

 

  1. 芸術をやることとは何を意味しているのか。

 

 当然ながら、芸術をやるということは芸術家にとって⽣活の問題に直結する。私は、私⾃⾝の⼀部が芸術だけではなく、芸術の⼀部である私で⽣きようと決めた時からこの質問をひたすら抱えている。私はこの⾃問の前で最も慎重にならなければならないと思っていた。その理由の中のひとつは、アーティストとしての私が⾏う全ての芸術的な⾏為(創作)が、この私の体から離れ、外への表現として存在しているため、作品⾃体やその過程ももちろん重要だが、その以上に創作が⾏われる前の段階、そして何かが作られたあとの責任のようなことが最も具体的で明確に捉えられないとならないということに気が付いたからである。個⼈の⼩さな、微細な感覚だった何かがある芸術の形になり、舞台上に広がる。そうやって創られた響が他⼈に伝わる。ただ、これに満⾜してしまうと、それは芸術家の我執か⾃⼰満にすぎないということを我々はわかるはずであろう。これは舞台上演を前提にする戯曲を書く劇作家でやってきた私 が、実際に演出にも関わってからわかってきたことでもある。

 アーティストにとって、芸術そのものだけ重要なものがあるとしたら、それは芸術をやり続けるためのすべての⽀えではないのか。つまり芸術家の「継続性」は、⽣活と密接な関係を結んでいて、アーティストとして⽣きる道を切らせないために我々は、⾃ら他の芸術やアーティストたちに繋がる地点を常に求めなければならないのである。どの分野であろうが、古典から同時代のアーティスト、または他芸術ジャンルまで、その潮流と今の動きを知っておくべきであるのは、⾔うまでもなく「未来」のためにあらかじめ設計図を組み⽴てることのひとつとして必然であろう。だからアーティストにとって芸術をやるということは創作活動だけではな く、継続出来る場と時間の可能性を探ることだと⾔えるのではないか。

 まず、その⼀歩として考えられるのは、⾃分の舞台から⾝を離れ、他の劇場に⾜を運ぶことだと思う。⾃分が安定している場所から遠くするのは、ある種のプライドや恐れ、もしくは時間的な制約などで意外と難しいことであると想像できるだろう。にもかかわらず、他の作品やアーティストたちに交流出来る場に⾃分を置くということで、我々はその芸術⾃体がただ偶然にできたことではなく、「必要」により⽣み出されたことを⾃ら認める作業だからである。

 そう、⼀つの作品がこの世に誕⽣するまでアーティスト個⼈の苦痛であることは認めるが、芸術が個⼈のみの作業であるとは⾔い難い。創作の主体だけではなく、鑑賞する側との視線合わせこそがその作品の新しい⽅向性を開けるチャンスだと思っているからである。いつにも増し芸術と⼈⽂学が脅されている時代に⽣きている我々はそれだからこそ互いの視線を⾒つめ合うべきだと思われる。その基本になる観る側の⼀部は、当たり前のように全てのアーティストたちに当たる。劇場やギャラリーに⾏って、作品を観て、直接フィードバックをしたり、作品についての個⼈的な感想を周りに伝える。かつ、同時代を⽣きているアーティストたちがどのようなことに関⼼を持っているのか、そしてそれをどのようにして表現しているのかなどに⽬を向ける同時に⾃分の創作活動を振り替えてみる。この古くさい慣習が現代ではある地域、 国、国境を超え、全く違う背景を持った⽂化圏まで広がれるようになってきた。そして今回APAFではその序幕としての場を経験することができた。

 

 2.アーティストとはどのように存在すべきか?

 

 APAFでのこの2週間のあいだ、今までのなかでもこれだけ芸術について考えたことがあったんだろうかって反省してしまうほど、熾烈な、刺激的な⽇々が続いてきた。多彩なバックを持っている同時代の⼈々、その中でも特に国際的なアーティストたちと交流ができるこのような機会は誰も彼も与えられていることではないということだと実感した。芸術とは⼈を語り、⼈に触れ合う作業で、創作をすること以上に⼈と出会うことは⼤事なのである。しかし、我々は慣れているものに依存したい傾向があると同時に物理的な理由で普段ある範囲以外の⼈と出会う体験は中々珍しい。なかでも違う⾔語で思考し、話す、違う教育を受けてきた、⾒慣れない個⼈とコミュニーケーションをするということは実際かなりな努⼒が必要だと思う。それにも関わらず、「芸術」という旗の下に集まった、個性豊かな個⼈たちが多⾓的視点と考え⽅を共有し、ひとつの⽬標に向けていく過程は何より⼈間的にも⾒えてきた。

 このYoung Farmers Campの5⼈のなかでもそれぞれの出⾝が違うし、興味ややり⽅も全く違う⽅向を向かっている。誰かは北九州で、静岡で、埼⽟で、東京で、ソウルで、誰かはワークショップを、芸術教育についてのワークを、テキストとは何かを、もしくは⾮―テキストとは何かを、しかしながらみんなが演劇とは、芸術とは何かを考えている。彼らと出逢う前まで私はこういった悩みを私⼀⼈だけのものだと思っていた。勿論、周りの俳優や知り合い、先⽣とのアドバイスや意⾒を貰ったことはあったが、どこか進まない気がしていた。私の悩みにはそれにまつわる正解を提⽰してくれるアドバイザーより⼀緒に悩ませてくれる仲間が必要だったのではないか。それからAPAFと出会ったあと、⽇々悩みながらも短期間で成⻑しているような感じがした。

 それこそ「友達をたくさん作ることは⼤事」という多⽥淳之介ディレクターの⾔葉は、なによりも個⼈活動をやり続けている我々アーティストがつい⾒逃してしまうところでもある。たとえひとつの作品を作り上げていくなかで芸術家は常に孤独や不安などに向き合い、ひとりで戦わなければいけないとしても、それが必ずしも創作活動以外の時間にもそうならなければならないとは⾔えない。多⽥さんの⾔葉は、単純の⼈脈を広げるという意味より、⾃分が作った何かにきちんと責任を持ち、⼈との絶えない交流を通じて⾃分のスペースをとり広げていくアーティストを⽬指すことは忘れてはいけないということではないか。

 今回私が参加したこのYFCというグループは、2019年度から新しい形のモデルの中でエキシビション、ラボの共同制作・コラボレーション活動チームとは違って、アーティスト個⼈としての活動を明らかにしながら、今まで⾒つけなかった本⼈のアイデンティティを確⽴していくことが我々に出された課題であった。私たちは何者なのか、何をしてきて、これから何をしようと考えているのかなどを、⼈の前で⾃分を語ることによって、アーティストとしての「私」の存在を少しずつ捉えていくプロセスだった。最初のうちは、メンバーそれぞれがやりたい事や価値観、背景などを追いかけるだけで精いっぱいで、ひとつになるのが難しそうに⾒えた り、相⼿の話は聞いているものの単純な興味以上にはならなかったのは確かであった。しか し、時間が経つほどチーム内の信頼性、つまり「我々のネットワークを作ろう」というはっきりした⽬標設定ができて、それに沿ってYFCは短期間の間「Young Farmers Camp サロン」やサロンパーツ2である「Young Farmers Park」の新しい計画を⽴て、実⾏することができたのである。APAFの運営側、多⽥ディレクター、そして場所を提供して頂いた東京芸術劇場のおかげで、今まで経験してきた共同作業とはどこか違うような、「友達」だと⾔えるような「若⼿アーティストネットワーク」がそのはじめの⼀歩を踏み出した気がした。

 

 3.芸術とは何か?

 

 現代では、芸術の定義よりその必要性が最も問われる。現代資本主義、⻩⾦万能主義、テロやヘイトクライム、難⺠問題、差別に関する総合的な社会イシューがより酷くなっていく中 で、現代の芸術家たちは毎回こういった質問に答えなければならない瞬間と向き合う。芸術が何にせよ、それは我々にとって必ず必要なものなのか?誰かは「芸術なんかやってる場合じゃないぞ」というまで思っているかもしれない。多くのアーティストたちは特定の答えより⾃分の作品として返してあげる。それこそが芸術をやっている⼈間としてできること、もしくはやるべきことだと思っているからであろう。しかし問題は、発信する側ではなく、「受け⼿」にある。距離をおいて芸術を鑑賞する彼らにとって芸術は必要なものなのか、今⽇芸術ができる役割とは何があるのか?

 かつては芸術家と作品⾃体から鑑賞者が圧倒され、そのひとつの世界や価値観を⽬の前に提⽰するのに過ぎない⼀⽅的なコミュニーケーションであったが、今⽇では芸術以外にも⼈の興味を弾ける要素はどこでも⽬にすることが可能になった。これは、現代の芸術が持っているそのものをただ⾒せるだけでは、いまの鑑賞者の⾒慣れた世界に少しの刺激を与えることすら難しくなったのと同じことである。だからこそ現代アートは、まるで原始に近いところまで回帰したかのように、その役割の形を変化しようとしている。常に難しい、理解ができない、⼀般のことではない、特別な何かだと思われがちな芸術を、きわめて⽇常的で普通の形に映り出 し、まるで我々のそばにいる近い存在として「共同体」のような役を社会的に果たしているようにも考えられる。私たちの⽣活のなかで芸術は必ず必要なものであると断⾔はできないが、もしこの世の中で芸術が消えるとしたら、もはや⼀⽅的でもなく、「コミュニーケーションレス(無疎通)」が私たちを⽀配することになるだろう。芸術は⼈に話をかけ、それを受け⼊れる⾏為であるので、ここにはせめて⼆⼈以上の存在が不可⽋で求められていて、その⼆⼈の間の媒体が作品になる。現代の芸術の役割とはもしかしたらもうコミュニーケーションができなくなってきた⼈間存在もしくはこの社会に問いかけるメッセージなのかもしれない。

 以上の⼆つの質問に結びついて考えてみると、コミュニーケーションのその⼀歩として創作活動以外に私にできることは何だろうと考えた時、ほかの誰か、具体的には⾃分以外のアーティストたちとのネットワーク形成によりこれからのステータスも全然変わることになるのではないかと思った。それはつまり、誰かに触れ合うことで「私」がここにいるということを伝えることでもある。⾔い換えると、ほかの作品やアーティストと同じ線上で我々の存在性を確認することができる。ここ、芸術が必要だ、という作品を鑑賞することではじめてその必要性が求められる同時に充⾜できる。芸術はそうやって寂しい⼀⼈の闘いから、「コミュニーケーション」になるのではないか。そうなるとこの時、芸術の存在について問われる主体者、我々アーティストたちが⾃ら外に出て、芸術の必要性を訴える想像も可能になるのでは、ということも考えられる。多数の⾃発的なアーティストたちが作ったネットワークはまた、新しいネットワークと繋がり、それはあるコミュニティや国境を超え、地球反対側に住んでいる、名前も⾒知らぬアーティストとのコラボレーションをすることも近頃現実になるかもしれない。

 

今回のAPAFを踏み台にして、もっと多くの、多様な価値観を持っているアーティストたちを含め、様々な観客層に出会える膨⼤なネットワークの実現を⽬指している。芸術においてもう⼀⼈の主体である観客のために、その⼀⽅の芸術家たちが⼒を集めるのは当然ながら、無視し続けてきたことにも気がついた。改めて⾃分を振り返ってみて反省し、これからの道を磨こうと決⼼したターニングポイントを与えてくれたAPAFの関係者の⽅々、多⽥さん、YFCのメンバーの⽳迫さん、酒井さん、熊⾕さん、⼭下さんに⼼から感謝している。

bottom of page