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Young Farmers Camp

最終レポート

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​演出家

穴迫信一

​2012年に福岡県北九州市でブルーエゴナクを旗揚げ。以降、全作品の作・演出を務める。

リリック(叙情詩)を組み込んだ戯曲と、発語や構成に音楽的要素を用いた演出手法が特徴。商店街・ショッピングモール・モノレール車内など、劇場以外の空間での上演も多数行っている。高松市アーティスト・イン・レジデンス2016や、ロームシアター京都×京都芸術センターU35創造支援プログラム”KIPPU”などに選出されるなど活動地域にも広がりを見せている。

 第一コア期間は予想外の事態から始まった。自身の持病の悪化により外出が不可能になり、ネットでの参加となってしまった。その節は、APAFに関わる多くの方々にご迷惑をお掛けしまして、大変申し訳ありませんでした。そしてご対応くださった植松さん、宮本さん、ネット参加をご了承くださった多田さん、Young Farmers Camp(以下、YFC)の皆さん、本当にありがとうございます。というわけで、予想外の事態から始まったわけだが、まずYFCのメンバーで自分のみが北九州という地域を拠点としていること、また他のメンバーは東京からの参加であったことが個人的には、今回の期間の(そして我々の)方向性を決定づけたと言えるし、またそこに意義があったように思う。

 

 第一コア期間では基本的に二つの時間(二種類の思考の手がかり)を行き来した。一つはExhibition の顔合わせ・ワークショップ・稽古の見学。多国籍の創作現場を体験するのはほぼ初めてで、日々のレポートにも書いたように通訳を通して対話することで時間の距離が生まれ、コミュニケーションに独特の有機性をもたらしていたことが興味深かった。(実際、アジア人にとっての英語は共通記号のようなものであって、当然母語でのやりとりなどとは違う簡素さがある前提で)。

 独特の有機性というのは、例えば対話を繰り返していく中で過熱して激しい口論のようになるとする。その時、通訳を介す必要がある彼らは売り言葉に買い言葉という速度には到達し得ない。今この人(意見が合わないことで憎しみを感じている場合もある相手)が何と言ったのかみんなで静かに待って通訳さんが変換してくれた言葉を聞かないといけないからだ。自分が理解できる言葉を発しているのは通訳さんだけど、それを言っているのは目の前のこの人で、と、冷静にスイッチしないといけない時間がやりとりの度に挟まることで、通訳という行為自体が建設的な対話に導くような効果を持っているように思えたということ。また、聞くという相手を受け入れる態度が前提となる対話の場では言語の違い自体も効果的に思えて、この先のディスカッションの中でどこまでこの効果が通用するかという興味を持たせた。という意味です。

 

 見学のほとんどは、創作の立ち上がり始めということもあって、作品のテーマも曖昧な中、それぞれの国や彼ら自身の出自・伝統・歴史・文脈を伝え合うという時間が多くを占めていた。その中である時、自国の文化を用いたオリジナルダンスを作ってくるという課題が出された。課題の日、それをメンバーはそれぞれ踊り、互いに見比べたりした。そのあと、今度はそれを1間(約180cm)×1間のスペースで踊ってみてほしいと演出の京極さんが言った。通訳された言葉を受けて、わーお的なことをメンバーは言って、それでもポジティヴに踊り始めたのだった。最初は狭そうに、不統一に、何の計算もなく、ただそれぞれがやりたいように、自分の振付を全うすることに目的が向けられているように見えた。しかしそれらは少しずつ、自分の与えられている範囲、相手の位置を踏まえた共生可能な形に変化していった。これは萎縮ではなく、配慮であると同時に他者(外部)から影響を受けた上での発露という点で、絶対的に表現-芸術であると感じた。京極さんはその時間を「複数のアジアらしさの共生によって、架空のアジアという国が見えた」とまとめ、自分が感じたこと通りのものが言語化され、またそれまで自身のテーマであった「伝わらなさ」は、「共生」へとアップデートできる可能性を示された感じがした。

 

 第一コア期間のもう一つの時間はYFCメンバーとのそれぞれの活動紹介や現状での課題の共有の時間だった。そこで東京から参加している自分以外の4人が近しい問題意識を持っていることが分かった。それは東京を活動拠点とすることへの疑問、あるいは危惧というべきだろうか。レベルは様々だけどそれぞれがそのことについて自身の活動紹介の中で触れていたことが印象的だった。そして自分の番が回ってきて、北九州での活動について話す。例えば市民センターでの企画公演では60名強のお客さんがほぼ全員70代以上であるとか、旦過市場という歴史的な木造の市場では、再開発を前に市場の記憶を残すアーカイブプロジェクトを行っており、市場内のスタヂオタンガというスペースで実際の店主の方々のインタビューを元にした作品を上演していることとか、北九州の街中を走るモノレールの車内で演劇を上演していて、そこには演劇を観たことの無いお客さんが飛び込みで観に来られるとか、そのような話が(もちろんネガティブな事例もあるし、それも話したけど)僕が思っている以上に彼らには豊かに刺激的に感じられたようだった。メンターである多田淳之介さんの「地域拠点を考えるなら、北九州はかなりアリ」という発言もあって、一度皆で北九州に行きたいねという話になった。それがこの後の、YFCの〈世代間でのネットワーク作り〉に向けた活動継続のきっかけとなった。実際のところ、地域を拠点に活動していくには様々なジレンマがあり、上記にあるように自身が「伝わらなさ」というテーマを掲げていたのは、そういった地域特有の文脈の中で、自分の信じる芸術活動を続けていけるのかという疑問があったことも、APAFに参加した理由として大きかった。ので、まさか北九州の事例が、東京で活動する彼らにある種の希望を与える形になったことはとても興味深かった。

 

 約1ヶ月程度の期間を置いて、キム・ジョン演出による『ファーム』観劇から第二コア期間が始まる。YFCメンバーはその1ヶ月の間に自身の課題を明確化して再集合する。第二コア期間は主に、レクチャーへの参加などによるインプットとYFCメンバーでの議論によるアウトプットを行き来することになる。第二コア前半はインプットの時間が続く。LAB.チームの中間プレゼンテーションに始まり、長島確氏、多田淳之介氏、相馬千秋氏、中村茜氏のレクチャー、そしてF/Tのシンポジウムに参加した。怒濤のごとく続くレクチャー(いや、シンプルに人の話を聞き続けること自体)の中で少なからずフラストレーションを感じたのは、その内容の多くから自身の何やらの不足を突きつけられたからかもしれない。その何やらとは芸術への教養か、歴史や社会、伝統、アジア、様々な問題を語る上での前提となる知識か、いずれにせよこのままではいけないという危機感と、だからこそ自分はここに参加しているという必然性、APAFが作ろうとしている場の重要性を感じた。

 

 その危機感はYFCメンバーそれぞれが少なからず感じていたようで、後半はそのフラストレーションを晴らすようにアウトプットが続いた。YFCのメンバーでタイムスケジュールに組み込まれていない自主的な議論の場を持って、ひたすら話し合った。池袋のルミネで1,500円くらいのランチ(吸い込まれるようにベトナム料理屋に入った)を食べながら、尽くしきれない議論が続いたのも、この期間に何かしらの成果物を出せるわけではない我々の立場上、インプットされた内容に対する自身の思考の、または感覚の変化、更新、反発、それにまつわる複雑なイメージを、言語化して表明し合うことこそが最もクリエイティブなシチュエーションだったからだ。その発展形としてYoung Farmers Salon(以下、YFS)が企画されたと言えるだろう。YFSでは対話の場を準備して、20代のアーティストに広く呼びかけた。これは期間が始まる前のヒアリングで、僕が多田さんに「東京のアーティストと話して、問題意識を共有したい」と伝えていたことが発端にあると思われる。そこで名前を挙げていた東京で今活躍する(評価されている?売れている?)アーティストの1人が、僕と酒井君が担当した「拠点について」をトークテーマとするテーブルに来てくれた。そこで彼から語られたのは、まさかと言うべきか、やはりと言うべきか、東京での活動に対する違和感だった。順調にキャリアを積み上げているように見える彼ですら、東京の文脈の、その価値観の中でしか評価が与えられない現状に、不安や閉塞感を覚えていたことが印象として強く残った。最初は持て余すかのように思われたYFSに与えられた3時間は、本当に一瞬で過ぎ去って、それくらい多くの参加者と話し、話し続け、問題意識を共有することができた。こういった場所から次のネットワークが生まれる可能性を信じて、北九州でも開催を計画している。

 

 YFCでの議論、F/T演目の観劇が続く中、今年のAPAFにおける最も重要な成果発表として行われる『ASIA/N/ESS/ES』を観劇した。俳優たちはバラバラのコンテクストを持ちながら一様にふざけを纏っていて、その脱力感がとにかくチャーミングだった。多国籍の俳優やダンサーたちが並んで立つだけで、多くの意味を含有してしまうようなセンシティブなシチュエーションであったにも関わらず、彼らは軽快で、まぬけで、しらっとしていて、それが作品全体の寛容さに繋がっており、最後まで愛着を持って観ることが出来た。またLAB.チームのパフォーマンス形式の最終プレゼンも良い上演だったと感じた。彼らはあえて滑稽な形式を選び、アーティストを逆説的に、自虐的に批評(あるいは批評自体の批評?)しているように見えた。その中には苦しみと覚悟というシリアスさがにじみ出ていて、その切実さが最後まで上演に集中力をもたらしていたとは思うものの、多くの問題を残しているアジア国間の文脈や出自の複雑さがあるにせよ、必ずしもそのシリアスを作品が引き受ける必要はないのではという疑問が生じたのも事実だった。しかしまた、彼らのジョグジャカルタ-東京でのフィールドワークの過酷さが、この期間の他の何よりもリアルだったのだろうと想像できる上演であり、自身のアジアに対するイメージの更新を促されたのは貴重な体験であった。

 

 今回YFCとして参加したことで、結果として、多くの問題意識の拡張に繋がったと考える。アジアにおける日本を考えることは、ただ演劇(生活)を続けるだけなら、必須とは言えないかもしれない。しかし視野を広く持ち、今日の社会状況の問題点を切り取り、あぶり出すことが使命であるアーティストにとって、日本の歴史や文脈を知り、それを創作に関係づけさせていく思考や行動の必要性を学べたことはとても大きな経験となった。評価されることだけではなく、関わる人や関わり方のチャンネルを増やすこともひとつの大切なキャリアであると感じた。また北九州を拠点として(拠点を移す可能性も0ではないが、少なくとも今後数年は)活動を続けていく上でのヒントも得た。それは、どんな場所にもグラビティ(その場所や人、環境から生まれる重力)は存在し、地方であるほどその強さは増していくこと。自分のやりたいこととやるべきことは、気付かないうちにそのグラビティによって決定されていることが多くあるということ。東京のアーティストが東京の相対的な評価しか得られないことに悩むように、地方のアーティストがどの評価基準を元に活動するか悩むように(必ずしもその二項に分けられるわけではないにせよ、この期間の実感として)、場所と問題は常に切り離せないものとしてあること。またそれは、その場所だけの問題ではなく境界の話であるとも言える。内部と外部という意識は、言語や国籍、その背景が持つ壁よりも遥か高く聳える。アジア人として、日本人として、そして北九州拠点として、それぞれの意識が今後どういったバランスで、自分の創作活動を導いていくのか、まだアーティストとしてどうしていくべきか分からないことも多くある。考え続けることをやめないこと、その先にしか希望はないだろう。

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